◇讃岐が育んだ剣聖・剣豪 〈植田 平太郎・植田 一範士・藤本 薫・谷川 猛美・香川善治郎範士〉

植田 平太郎

(うえた へいたろう、1877年(明治10年) - 1949年(昭和24年))は、日本の剣道家。流派は天真正伝神道流剣術、無双神伝英信流抜刀術。称号は大日本武徳会剣道範士、居合術教士。

昭和天覧試合3回出場。大日本武徳会香川支部、香川県警察部、高松監獄署、高松商業学校、高松商業学校、高松第一中学校の剣道師範を務めた。

剣道特選試合で模範試合を行う大島治喜太と植田平太郎

 

 

 

1907年(明治40年)10月、高知県で開かれた剣道大会で27人を勝ち抜き優勝。全国にその名が広まる。 

1929年(昭和4年)5月、御大礼記念天覧武道大会に指定選士として出場。リーグ戦堀田徳次郎中野宗助橋本統陽を破り決勝トーナメントに進出し、で準々決勝で堀正平を破る。準決勝持田盛二一本先取するも敗れた。 

1934(昭和9年)5月、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会特選試合(模範試合)に出場し、大島治喜太との試合を披露した。 

1936(昭和11年)8月、若手の実力者中倉清が香川に来訪したので、中倉に一週間稽古を付けた。

1940(昭和15年)6月、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会特選試合(模範試合)に出場し、渡辺栄との試合を披露した。

〔植田 平太郎範士顕彰碑〕 香川県立武道館内 香川県高松市福岡超1-55 ℡087-821-5125 


植田 一(うえた はじめ)1913年(大正2年)5月9日 -2012年(平成24年)4月26日は、日本の剣道家。段位は剣道範士九段、居合道教士。

剣道家植田平太郎の三男として香川に生まれ、6歳から父に剣道を学ぶ。高松高等商業高校(現・香川大学経済学部)を卒業し教員となる。

1993年(昭和8年)、第7回明治神宮体育大会剣道競技青年団優勝試合(個人)で優勝。1935年(昭和10年)、第8回明治神宮体育大会剣道競技在郷軍人軍刀術優勝試合で優勝。

1953年(昭和28年)、香川県警察に奉職。同年、第1回全日本剣道選手権大会で第4位入賞。1955年(昭和30年)、第3回全日本剣道選手権大会で準優勝。その後香川県警察本部剣道師範、同名誉師範に累進。

香川県立武道館剣道師範、中四国学生剣道連盟相談役、香川大学剣道部師範、同名誉師範、香川県剣道連盟名誉会長、全日本剣道連盟審議員、評議員、副会長、相談役を歴任。香川県剣道界の長老として後進を指導した。享年98歳


 流れ星」一 より 

 流れ星・・・元来暗色毛馬の額から,鼻上に伸びた白毛斑をいうのでありまして,星の伸びたものの意味である。一般には空中に急に現れて,大いなる速度にて通過する光体をさし,狭いものを細流星,広いものを交流星,長いものを長流星,中断するものを破断流星という。仮設の床板そのものが,今まで馴れている道場の床板とは大分違った感じがする。この状況の差異による錯覚をなくするために,まずこれを呑み込んでおかなければなるまい。厳粛な入場式を行っている間に不都合千万にも自分はこう考えてみた。  

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藤本 薫(ふじもと かおる)1914年(大正3年)1月1日 ー1942年(昭和17年)3月9日

 父敏雄が広島伝逓信局勤めであったため広島県で生まれる。11歳で父の本籍地である高松市仏生山町に帰郷する。香川県立高松中学(現、香川県立高松高校)時代には植田一、佐藤正男らと黄金時代を築く。その後、早稲田大学に進学後、髙野佐三郎や斎村五郎らに師事し、逆二刀を開眼する。父親の急死をうけ、家業の郵便局を継ぐために早稲田大学を中退し、帰郷する。植田平太郎範士に師事し、腕を磨く。

 昭和9年5月5日に宮城内濟寧館で行われた皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合の剣道府県選士の部準優勝

 「昭和の逆二刀・天覧試合の花形」と謂われた。

   ペグ―(ビルマ)攻略戦において英機甲軍との交戦中、左腕に貫通銃創を受ける。その後、野戦病院で左腕切断の手術を行う。ガス壊疽のため9日死亡。享年28歳 陸軍大尉に特進。剣道三段

 「俺、左腕が無くなったら剣道ができんよになる。」と言ったと謂れている。

 写真:昭和9年5月4日、天覧試合を前にして       

昭和9年5月5日に宮城内濟寧館で行われた皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合の剣道府県選士の部決勝試合。

   藤本は破竹の勢いで強敵を次々と打ち破り、決勝の舞台に登りつめる。

左 野間 恒(六段相当)  右 藤本 薫(三段)。中央は小川金之助審判員

 

 藤本は、多彩な攻め口で見事な胴を先取しながらも、激戦の末、胴と面を返され惜敗する。

〈参考文献〉

大日本雄辯会講談社編「皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合」 植田一「流れ星」 庄子宗光「剣道百年」 早瀬俊之「タイガーモリと呼ばれた男」 萬里閣「秘録大東亜戦史・マレー・ビルマ編」南堀英二「昭和の二刀流ビルマに死す」「剣道日本」復刊特別号2018年0号(VOL.1)


谷川 猛美(たにがわ たけみ) 剣道範士 居合道錬士 銃剣道教士

1920年(大正9年2月27日生)―2005年(平成17年2月3日没)享年77歳 自営業

自宅に道場を構え、剣道の普及発展と青少年の健全育成並びに防犯・保護司活動に多大な貢献を果たす

元全日本剣道連盟評議員・香川県剣道連盟副会長

香川県綾歌郡宇多津町

〈剣道経歴〉

昭和11年4月9日 共済会鎌田武道館剣道部入門

植田平太郎・植田一範士・角森正孝教士に師事する。

昭和22年4月1日 谷川道場剣道部開設

昭和26年4月1日 修猷館と改める

昭和61年5月8日 八段取得  平成3年5月8日 範士称号を得る

昭和31年2月29日 第4回全日本撓競技選手権大会(一般の部) 優勝

昭和54年10月17日 国民体育大会剣道競技団体(一般の部) 準優勝

全日本東西対抗剣道大会 8回出場

全日本剣道選手権大会 5回出場

全日本都道府県対抗剣道大会 13回出場

国民体育大会剣道競技 18回出場 

     昭和31年2月 全日本撓競技大会優勝(36歳自宅にて)

剣道時代(体育とスポーツ出版社)2009年10月号より