月刊「剣窓」6月号 平成29年(2017)平成29年6月1日発行 全日本剣道連盟


師匠よりは真剣味
                                                                植田 平太郎

 すべて真剣で事に当たれということを昔からよく聞かされてきたが、我々剣の道に志す者はその気持ちを瞬時も放さぬことが特に肝要である。よい師匠がないからとか、好相手が居ないから修行も上達出来ぬとかいうのをよく耳にするが、平素はただ練習であるからとか、相手が後輩であるからといって、大切な稽古を粗略にし、いざ勝敗を決する段になって或いは高位高官の前だからとて、殊更固く大事を掛け過ぎるといった心がけの人が多いのではなかろうか。
 自己修行の資たる他人の稽古を見、また大先輩の良き修行談話を聞いていながら、それを真剣に自分でやって見ないのではなかろうか。
 昔と違って見聞の機会も多く、自己の心掛け次第で教えられ鑑とすべきことは日常座臥数限りなくあるのを看過して、朝夕の修行に真剣味を欠ぎ、行くべき途を誤っているのではないだろうか。
 他人の試合や稽古に細心の注意を忘れぬはもちろん、己がただ一度の稽古にも気を籠めて、平常見聞の教材を真剣に習熟することによって修行は存分に出来得るはずである。
 成らぬをかこつ前に、為さない自己を厳正に省みるべきであろう。
                    (香川新報「武道修養訓」S16.4.7)

 

上段と正眼の利得
                                                                植田 平太郎

 元来上段とか正眼とかはその構えの名称で、斯様な構えをすれば斯様な利が伴うという普遍的な利得が有る理のものではないと思います。剣道には、五法の構えという事が原則となっていますが、また一面剣道には構え有って構えなしとも説かれて有るとおり、総じて如何なる構えにも各々一利が有り、それが相手の働き様に依ってはまた不利ともなるもので有りますから一概にこの構えには必ずこの利ありと断言出来るものではありますまい。上段にしろ中段にしろ相手の太刀の動きようとかまた体の働きようにより利害の生ずるもので有りますから、構えに利があるのではなく働きに利が得られるのです。気と体の働き乏しきものは如何なる堅固な構えをしても畢竟厳めしい鎧を着けた傀儡と何等選ぶ所がありません。
 構えそのものに利があるものではなく、相手次第で変化する自己の働き如何でのみ利が得られるものであると考えなければならないと思います。
 最近になってからの上段と正眼の大試合は昭和四年に開かれました天覧試合に於ける優勝戦高野茂義先生と持田盛二先生の試合、昨年武徳会本部に於ける高野茂義先生と斎村五郎先生の模範試合の二つで、この両試合共双方の気合の充実して贅剣のない実に見事な大試合で、只管敬服致すのみで有りました。
 剣道の試合では或る一定の構えに依って、何時の場合にも常規的に利を得る物であるという事は決して謂えるものではなく、同様にまた体力の優劣に依っても其の結果を予測し得るものではないという事を、私が未だ少年の頃父の下で剣道を仕込まれていました折りに、終始父からやかましく言い聞かされたものでした。上段と正眼の構えの云々の此の稿としては、或いは余談の感が無いでも有りませんが序でに申上げたいと思いますのは、近来剣道を志す方の間に体力の強弱力量の有無が勝敗の効果に不可分の関係が有るかの言葉を往々耳にする事です。私は是に就いて体力の優劣が決して勝敗の重大要素になるものではないということを申上げたいのです。剣道は体力や腕力で遣うのではなく、第一太刀捌きを能く弁え、気体一致の働きさえ出来れば如何に矮躯微力の者も一向支障ないもので有ると信じます。
 これを要するに、剣道勝敗の岐源は体力や腕力に因るものではなく、また一定の構えに利があるというものでは有りません。相手々々に依って其の都度臨機の処置をとる事こそ至極肝要で、厳格な意味からいえば、平常終始の各人の修養如何で利不得の定まるもので有るといえましょう。要は平常の心掛け次第です。先輩後輩を問わず、自己の最もよき鏡となる可き事を見聞し、是を師導に朝鍛夕錬、切磋琢磨する事が最も必須な事で有ろうと思います。
  琢之磨之而不息則日新不暗
                         (武道宝鑑 昭和九年十一月十五日発行)